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浅間太郎の小諸探し

明治時代の小諸はすごかったのは、どうして?その秘密はなんだろう。

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小諸藩主 牧野康哉と種痘 (日本初) [江戸時代]

源清麿 小諸生まれの名刀工 [江戸時代]

2008年12月23日の「なんでも鑑定団」をみていたら、なんと、小諸生まれの名刀工がいるとか。
源清麿という名前。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/database/20081223/02.html

恥ずかしながら、浅間太郎は知りませんでした。
しかしながら、浅間太郎に「人間Google」とよばれる、浅間太郎の奥さんは、なんと、源清麿を知っていたのです。
すっかり、バカにされた。
ちなみに、「人間Google」は、小諸生まれでも、ないんです。(つまり、世界のあらゆることを知っているらしいのです。)

さて、小諸の有名人を一人知ったのです。
刀剣愛好家には、有名らしいです。一振り、2000万円以上するものを多いそうです。
しかし、贋物も多いようで、なかなか本物に出会うのは難しいのかもしれせんが。

(読売新聞)謹慎中に小田原攻め参陣~仙石秀久 [江戸時代]

読売新聞より (失敗にめげない仙石秀久)

http://www.yomiuri.co.jp/otona/study/busho/20140220-OYT8T00465.htm?from=grank

 

謹慎中に小田原攻め参陣~仙石秀久





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イラスト・西田孝一

 仙石秀久は通称の権兵衛で知られている。

 はじめ、織田信長に仕え、羽柴秀吉の属将とされ、家譜によると、天正2年(1574年)には近江(滋賀県)の野洲やす郡内で1000石を与えられたという。

 秀久が武将として頭角をあらわすのは、同9年(1581年)9月、秀吉が信長の命を受け、四国・淡路攻略に乗り出すようになってからである。このとき、秀久が中心となり、淡路島北端の岩屋城・郡家ぐんげ城(ともに兵庫県淡路市)を落とし、さらに、淡路水軍の大将安宅あたぎ清康の由良ゆら城(同県洲本市)を落としている。

 このあと、秀久が秀吉本隊に戻った隙に、菅かん平右衛門が長宗我部元親に通じ、洲本城(同市)に入って淡路全土を押さえるということもあったが、奪い返して秀久が洲本城主となった。

 同13年の秀吉による四国攻めにおいても活躍し、戦後の論功行賞で讃岐(香川県)一国を与えられ、居城を高松城としたが、淡路もそのまま支配しており、このころの豊臣政権による四国支配では最重要人物だったことがわかる。

 ところが、翌年の豊後(大分県)戸次川へつぎがわの戦いで大失態を演じてしまう。この戸次川の戦いは、秀吉による九州攻めの前哨戦の一つで、秀久が主将となり、前年降伏したばかりの長宗我部元親・十河そごう存保まさやすらとともに、島津家久と戦った。

 この戦いで、秀久は島津軍の作戦に引っかかり、大敗を喫し、元親の子信親および十河存保も討ち死にし、秀久自らは逃げてしまったのである。秀吉が怒ったのはいうまでもない。結局、所領は没収され、謹慎処分となった。

 ふつう、そのまま沈んでしまうところだろう。しかし、秀久はそこからみごと復活を果たすのである。そこが秀久のすごいところといってよい。

 謹慎処分といっても、緩い謹慎だったのだろう。同18年(1590年)の秀吉による小田原攻めのとき、自ら徳川家康の軍に加わっているのである。秀吉がそのことを知り、秀久の積極性を高く評価し、信濃(長野県)小諸城主5万石の大名に復活させている。その後、家康にも優遇され、仙石氏は近世大名として存続した。

(2014年2月27日  読売新聞)

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