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浅間太郎の小諸探し

明治時代の小諸はすごかったのは、どうして?その秘密はなんだろう。

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小諸スタイル [明治時代]

大晦日を迎えると、落語に登場する、掛取りということが発生する。
そんな大晦日が近づいてきたので
(主に、小諸商人太平記より)

柳田茂十郎に学ぶ 小諸スタイル (明治初期の話ですよ、)

現金売り
p.24 昔は貸し売りが普通ですが、問題があるので、、現金売りにしたのです。
(ひょっこりしょうたん島のトラひげ式商法でしょうか?)

 最近のトヨタのカイゼンなどが有名ですが、
p.23-24 店のの経営も合議制のしたのです。合議制というのは、たとえば、1日の仕事が
終りますと、丁稚から番頭まで集めて、きょうの仕事はどうか、改良することはないか
といったようなことを話し合うのです。

店員を非常に大事にした。
勤務時間の制定。
柳田式洋服の考案
娯楽室
貯金制度
奉公人の独立
p。24 今でも長野から須坂の方にいきますと、柳田という屋号の店がたくさんあります。

ただし、p88から、池田六衛氏の丁稚物語があり、当時の小諸の呉服店に丁稚にきた
体験談を載せている。店の様子がありありとかいているが、店ごとに、事情も違うので
柳田茂十郎のスタイルが、小諸の店すべてに適応できるわけではない。
この池田氏は、松本から、わざわざ、小諸に修行にきた人である。

地域社会への貢献
p.24,25
町の向上を図るため茂十郎は町の有力者と力を合わせて、「荒町和合会」をつくりました。
この会は町の人が財産造成をしながら、生活を支える基盤、例えば、水利灌漑を考えたり
川を修理して出水を防いだり、道路を改修するなどの仕事をして、地域に貢献。。。

商売の極意 (小諸スタイル)
p.22 商売というものは投機的な一攫千金を夢見るような、ばかげた経営をするべきではない
ことを悟り、地道な商人に生まれ変わりました。小諸に帰って家財道具などを、一切売り払い、
それを元手に金物、畳表とか、関東から入ってくる商品を扱って努力、数年して、巨富を蓄え、
豪商となったのです。
(この文章の前には、彼は、貿易のため横浜に行き、失敗したという文章があります。)





小諸スタイル [明治時代]

小諸スタイル

塩川友衛著 小諸藩 より

p.189-190

大和屋呉服店ののれんの「現金正札、懸直(値)なし」と、角屋権兵衛の「廉価実直」
の文言は、小諸商人の心を代弁している言葉である。購入する消費者の必要感も
「やすくてよいものを」という心と一致する言葉で、そのような正直で誠実な対応は
購入者に共感や共鳴の情を起こさせる。小諸商人のこうした商売の結果、信用を
かちとって、商業を発展させ、「安く仕入れて安く売る」商人道になり、商人魂になった。

小諸藩 (シリーズ藩物語)

小諸藩 (シリーズ藩物語)

  • 作者: 塩川 友衛
  • 出版社/メーカー: 現代書館
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 単行本


小諸馬子唄と明治の民間運送業の発展 [明治時代]

小諸馬子唄について調べているとこんな記事をみつけた。


小諸馬子唄はその昔、碓氷峠を中心に中仙道・北国街道を往来する馬子衆が荷物を運びながら唄った、おおらかな道中唄。当日は全国から愛好者が集まり、自慢の喉を競います。

そこで、ピーンときたのが、中牛馬会社 民間運送業 明治5年 などの、民間運送の台頭ですね。
たしかに、小諸は確かに、流通の拠点のひとつでもあった。
この独自性と相対した形で、登場してきたのが、鉄道網の整備で、小諸で発達した民間運送の強敵になった。
それは、時代の流れなので仕方のないことではあるが。

小諸馬子唄はのどかなおおらかな唄でもあるが、明治の民間運送の源流にもなったかもしれません。
その後、自動車運送や交通網、民間鉄道の建設と、明治のバイタリティが発揮されてもいくのです。

現代資本主義の中でこそ 「後世最大の遺物」こそ必要 [明治時代]

世界にお金があふれ出し、巨大ファンドが石油や穀物を投機の対象にしている。
自分の金というより、人の金を預かって、運用しなければならない ファンドは、利益を得るためには
なりふりかまわないところがあるようだ。

自ら稼いだ金をどのように使うべきか考察した 内村鑑三の「後世最大の遺物」こそ
現代社会にもっとも必要である。
特に金余りの時代こそ、考えるべき視点であろう。

金を暴れさせない「理性こそ」資本主義に必要である。

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明治の小諸の経済発展に、内村はどのような影響を与えたのであろうか。
小諸にキリスト教が根付いたかどうかは別にして、明治の小諸の発展に大きな精神的支柱として
存在したのではないか。
その意味で、内村鑑三の経済に対する考え方が、日本の経済発展に与えた影響についての
考察は、あるのだろうか?

際立って、研究されたことはあるのだろうか?
機会があれば、調べてみたいと思う。



明治元年 小諸のできごと [明治時代]

明治元年 2月6日 桜井常五郎 京都より江戸に至る勅使と称し来たり。
その夜 小諸の本陣に留まる。
翌7日朝追分に向かい出発する。
小諸藩は、偽勅使とわかり、近隣に通報し、2月18日 捕まえたそうな。
----------- 面白いことがあったようですね。 小諸繁盛記(復刻) P.55より ---------------

1861 年に、皇女和宮が江戸にいくのに、中仙道を使い、沿道の整備も行われ
京都から勅使という、騙すというのも、小諸の人にも、なじみがあったというべき
なのかもしれませんね。明治元年は、1868年ですから、7年後の出来事ですね。



明治5年 小諸の出来事 外国に出会う [明治時代]

明治5年 小諸のできごと

小学明倫学校開校
小諸藩士子女 富岡製糸に見習いにいく。
小山五左衛門 中牛場会社創設
郵便取扱書

明治4年 小諸城主牧野氏 東京へ
明治5年 小諸城、本丸、黒門、三の門 など、民間に払い下げ

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小諸で江戸が終わり、明治へ切り替わった時なのかもしれませんね。


明治5年は、小諸にとって、画期的な年なのかもしれません。
それは、小諸人が、海外の人と直接出会う年でもありました。
日本人と外国人との出会いで衝撃的な出来事は、札幌農学校のクラーク博士と出会いが
あげられると思いますが、それに匹敵するような出来事が、ここで訪れます。

ここで、小諸商人太平記という本から様子を抜粋してみましょう。


まずは、p35ページより
士族の子弟60人が、上州の官営富岡製糸場へ技術習得に参ります。
和田英が書いた「富岡日記」が有名なので、富岡へ勉強にいったのは松代藩のばかりと誤解されていますが
人数的には、小諸藩のほうがはるかに多いのです。

そして41ページ

そのフランスから明治3年にポール・ブリューナーという技師を高給で雇い入れ、彼の設計で
上州富岡に官営製糸工場を作り、5年に開業しました。そこへ全国から伝習生を集めて技術を
学ばせ(中略)

そして45ページ
富岡へいった伝習生の中からは、さまざまな人物が出ています。 (中略)


そして、その中の人物を拾い上げてみると

山本晴明 ヨーロッパ思想にふれて、政治結社有為社を設立して、国会開設運動を行うようになります。
稲垣正直 自由民権運動を行っていきます。
などが、登場しています。

高橋平四郎が、60名の伝習生を送って、製糸技術の習得のほか、海外の思想に触れて、
長野県の自由民権運動の拠点にもなっていったようです。

小諸で自由民権運動は活発になったおおきな原因の一つに、海外の思想に60人の伝習生が
直接触れ、その中で何人かが、西洋の考え方におおきな衝撃を受けたということでしょう。
それは、札幌農学校のクラーク博士の出会いにも匹敵する、衝撃であったのかもしれませんが、
政治運動という流れのなかで、あまり、記録されることなく、現在に至ってしまったのかもしれません。










明治7年  高橋平四郎 丸万製糸を設立 [明治時代]

明治7年 高橋平四郎 丸万製糸開業

小諸の明治を語るときに、丸万製糸を抜きに語ることはできない画期的な出来事です。
明治5年に士族の子弟60人が富岡製糸場に、伝習生を送り出したのは、この高橋平四郎。
まだ、官営の製糸工場しかない時代に、民間資本として県下初の製糸工場が小諸町に誕生します。
さて、どこにその工場はあったかというと、六供に建設しました。

小諸商人太平記(P.47)から少し情報を拾ってみましょう。

高橋が丸万製糸工場を造るとき、(中略)、みんな大反対だったのです。この反対を押し切って、強行した、
というのが実情です。

理由は、彼は、荒町の戸長をしており多忙だったこと。
明治7年に生糸の値段が暴落していたので、経営が成り立つ見込みがなかったこと。

規模は、32人繰り
明治7年の実績は、繭を1280貫(4800キログラム)購入して、256貫(960キログラム)を生産

明治9年に生糸の値段も上がり、経営も順調になり、明治13年には48人繰り工場に拡張
明治13年の生産高が、322貫(1207キログラム)
明治15年には、540貫(2025キログラム)になった。

当初は設備も粗末でしたが、その後、改良発展して、県下の模範工場として広く知られていきます。

明治10年に東京で開催された内国勧業博覧会で、丸万製糸工場の生糸は、鵬紋賞牌という最高の賞を
受けました。
明治11年にフランスのパリの万国博覧会に出品して入賞
明治12年 横浜共進会では、2等賞
明治13年 オーストラリアのメルボルンの万国博覧会にも入賞

このような入賞の影には、蚕自体の改良にも取り組んでいますし、製糸技術の改良にも改良しています。

詳細は、小諸商人太平記を参照していただけたらと思います。

しかし世の中は、不況の波も打ち寄せ、丸万製糸も、順風満帆というわけにはいきません。

そして、時代は、純水館へと代わっていくのですが、もうすこし、時の流れが必要です。

さて、これだけの人ですから、インターネット上にいろいろ情報があってもよいかもしれませんが、
ほとんど何もないようです。
セメント会社関係の人で、同姓同名の人がいるようです。

例によって、Google Book Search で調べてみましょう。
ミシガン大学などの蔵書データを検索しているわけですが


Chiiki minshū shi nōto: Shinshū no minken, fusen undō - 79 ページ
地域民衆史ノート 信州の民権、普選運動 

Hiroyuki Kamijō 著 - 1977 - 382 ページ
議員は定員二十四人で、この日出席した十八人は、議長に高橋平四郎、副議長に中村敢
... 高橋は一八セ W 年六月、小諸町に九万製糸場と呼ばれる三十二人繰りの器械製糸 ...

に、その記載があるようです。

他にも、以下のような本に登場しているようです。(もちろん、ミシガン大学などの蔵書を検索した結果ですが)

長野県史
Nagano-ken (Japan), Nagano-ken (Japan 著 - 1980

信州学大全
Takeo Ichikawa, 市川健夫 著 - 2004 - 1100 ページ

維新の信州人
Shinano Mainichi Shinbunsha, Shinano Mainichi Shinbunsha, 信濃每日新聞社 著 - 1974 - 315 ページ

Shinano
Shinano Shigakkai, Shinano Shigakkai 著 - 1952

Kindai sangyō no seisei
Meiji Shiryō Kenkyū Renrakukai 著 - 1958 - 235 ページ


Shinshū minken undō shi
Shinshū no Minken Hyakunen Jikkō Iinkai 著 - 1981 - 279 ページ














明治8年 小諸の出来事 [明治時代]

明治8年 小諸の出来事

本町の郵便取扱書 小諸郵便局になる。(今も、残っていますね。)

小諸病院開設する。


この頃からランプ、人力車、荷車が入った。人力車ははじめ2台。駕篭は、この頃まで使われる。


明治9年 小諸の出来事 [明治時代]

1876年(明治9年)7月18日 - 小諸城下4町(荒町・市町・本町・与良町)と14町からなる貫属地(武家町)を併せて長野県佐久郡小諸町となる。

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どう考えても、荒町、市町、本町、与良町 とは、ほんのわずかな、通りであり。
明治時代、このわずかな道沿いが、まるで、今のアウトレットのごとく、キラ星の優良商店ぞろいに
発展したのは、なぜなのだろうか。

明治10年 石塚重平  [明治時代]

明治10年 石塚重平 自由民権を唱える 政社「盤鴻社」結成

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盤鴻社 長野県初の自由民権結社 

さて、この石塚重平なる人物とは誰なんだろうね?
どう考えても、腕白的な親分肌の人のような気がしますが、
小諸人らしいのでしょうか?

と、思って、いろいろ探してみると、なかなか立派な人のようですね。
すみません。政社なんていうので、怪しい雰囲気を感じてしまいました。

「小諸商人太平記」 p。81からの引用です。

「明治10年に石塚重平が中心になって結成した盤鴻社が、それで、
石塚は、小林秀太郎ら優秀な青年たちを集めこの運動に立ち上がったのです。
そして、国会開設運動を展開しました。また、その翌年の11年には、山本晴明も
小諸藩の士族の若者を集めて有為社をつくり、板垣退助や頭山満らと連絡をとって
国会開設の運動を行いました。」

その後、自由民権の弾圧の中、投獄され、その後、出所して、衆院議員になりました。
このページには石塚重平のりっぱな写真が載っています。

このような人がいなければ、国会開設が遅れていたのかもしれません。

現在の憲法は、世界最古の現行憲法といわれています。
60年にわたり、一度も変更されたことがないからです。
日本では、憲法は、永遠普遍であると思われているのでしょうか?

しかし、明治時代、日本が憲法をつくろうとしたとき、日本中でたくさんの
憲法私案が作成されました。まるで、憲法ブームといってよいほどです。
どのくらいの数の憲法が作成されたかは、わかりませんが、(きっと、どこかにそのような
研究があるとは思いますが。)千や2千という数はあるのかもしれません。

さて、明治10年 新しい未来を夢見て、なにか、新しいうねりが、小諸から発信
されていったのかもしれません。

ishi.jpg

小諸商人太平記 P。81より


Google Book Search で、石塚重平をしらべると 168冊がヒットする。
その一部 (例によって、その多くは、アメリカでスキャンされたもの)

Minken undō no tenkai - 215 ページ (民権運動の展開)
Meiji Shiryō Kenkyū Renrakukai, Meiji Shiryō Kenkyū Renrakukai 著 - 1958 - 240 ページ
明治一セ年の自由党らくは石塚重平の事であろう。「石塚重平は信州小諸の人… …十年柱
鴻社を設け其社長と為りて青年子弟を集め政治経済の話学を講究す。 ...

伊藤博文関係文書 - 332 ページ
Itō Hirobumi Kankei Monjo Kenkyūkai, Itō Hirobumi Kankei Monjo Kenkyūkai, 伊藤博文関係文書研究会 著 - 1981
明治 29 年 3 月 30 日石塚重平東京代議士自由党員石塚宜乎は自由党の内情を拓公使
に密告する者なり。一、姑町区五番町拾八番地代詩士自由党員石塚重平は雷国前 ...

大阪事件関係史料集(全2巻) - 138 ページ
Shōichi Matsuo, 松尾章一, Teiko Matsuo 著 - 1985 - 1160 ページ
金五百五十円アリ之ヲ石塚重平カ丈取来
リ其内百円ヲ自分ョリ大井ヘ坑スト申居ク Ⅱ (金百五十円走ハ八月中旬小梓村石某 ...

日本政社政党発達史: 福島県自由民権運動史料を中心として
Kichinosuke Shōji, 庄司吉之助 著 - 1959 - 641 ページ
583 ページ
... 三日舛戎貝会ヲ明キ左ノ諸項ヲ決戎ス出席ノ諸氏左ノ如シ大久保扶作、石塚重平、
杣木枝盛、垣内正柿、国友重羊、末広亡恭、大江卓、加群平四郎、板倉中、河野広中、 ...

Saku jiyū minken undō shi - 174 ページ (佐久自由民権運動史)
Kunikazu Uchara 著 - 1973 - 310 ページ
二渡杖叶両石塚重平が大井憲太郎と ... 「被告人石塚重平ハ(中略)其資金 ...


Shinshū minken undō shi - 141 ページ (信州民権運動史)
Shinshū no Minken Hyakunen Jikkō Iinkai 著 - 1981 - 279 ページ
石塚重平は一八八二年に筆生を ... 年党催 5・喜・遠一八八三一四回小諸町 6 石塚重
平四郎 1 土から翌八四年 ...

その他 多数存在 (OCRによる文字変換のため、うまく変換できない部分がある。)

私擬憲法 [明治時代]

小諸で憲法案が考えられたかは、分からないが、

Wiki で、早速しらべてみると

私擬憲法というらしいことが判明

私擬憲法(しぎけんぽう)とは、明治時代の大日本帝国憲法発布以前に、民間で検討された憲法の私案のこと。 現在60以上の存在が知られている。

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千や2千 と,いったが、そんなにはないのかもしれません。

自由民権派の憲法草案(私擬憲法)



明治11年 明治天皇 巡幸で、てんやわんや [明治時代]

明治11年は、明治天皇が小諸にやってきて、てんやわんやの大騒ぎだったらしい。
もちろん、突然やってきたわけではなく、十分な準備をして対応した。

と、書きながら、あれ!

明治4年に牧野氏(小諸城主)は、東京にいってしまった。
(市民みんなで見送ったそうだ。)

すると、小諸をまとめたのは、誰だ。

いったい、だれが、小諸を纏め上げたのだ。

どうも、商業や自由民権運動家は、登場してきたが、
実際の小諸をまとめあげた人は、登場して来ないのが
解せないね。

武家制度から、商人の町にどのように転換したのかが、よく分からない。
士農工商 という階級から、いったい、どんな変化が起きたのか。

もうすこし、明治を探求してみよう。





明治13年 小諸城 懐古園として、公園になる [明治時代]

明治13年 小諸城 懐古園のして公園になる。

現在の小諸城は、山本勘助が、設計したとも言われる。
武田軍の本拠地は、甲府で、小諸近辺の武将を、次々と破って、
小諸を分捕ってしまった。いわば、侵略者ともいえなくもないが、
それは、それで、戦国時代の定め。

山本勘助は、歴史上ほとんど記述が残されていない 謎の人物である。

武田信玄の歴史をまとめた「甲陽軍鑑」に登場して、いろいろな活躍が書かれている。
「甲陽軍鑑」が、ほとんど唯一の記述であるが、なんと、「甲陽軍鑑」の記述と
日本の歴史の出来事の年代を比べてみると、いろいろ不一致が発見され、
「甲陽軍鑑」が、歴史的事実を書いたのかどうかも、疑問を呈されている。
もしかすると、単純な記憶間違いなのかもしれないし、もしくは、創作や、意図的な
歴史誤認をしているのかは、わからないところである。

NHKの大河ドラマで、山本勘助の存在は、全国的に有名になったが、その存在が
学問上、不動のものになったわけではない。

まだ、山本勘助は、実在したのか、また、NHKのドラマのような風貌なのか
不明である。

「甲陽軍鑑」が、もっと、歴史的精度が高いといいのだが、どうも、そこが、問題なんですね。

小諸城(懐古園)には、山本勘助に由来するもののいろいろ残されています。

というわけで、明治13年 公園になりました。

明治15年 小諸施薬院設立 [明治時代]

本院は、柳田五兵衛、柳田茂十郎、医師加川松軒、高野東庵の四氏共同して窮民救助のため設置
その後、明治17年2月10日 閉院となった。2年余りの活動だった。

この夏アメリカ婦人宣教師荒町に止宿し、キリスト教の伝道集会を開いた。

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さすがに明治時代の人のこと。
Google サーチごときには出てこないが、おそるべし、 Google Book Search。
高野東庵は、見つからなかったが、加川松軒は、見つかった。
例によって、アメリカでスキャン OCRはまだ正確ではないか、それでも、この威力 恐るべし。

Saku jiyū minken undō shi - 237 ページ (佐久自由民権運動史)
Kunikazu Uchara 著 - 1973 - 310 ページ
... 苫長するや藩士山本杏圃について漢学を修め、明治五年頃から加川松軒を教頭として私執を ...


Shinano jinbutsushi  (信濃人物史)
Toratarō Satō 著 - 1922 - 662 ページ
... 加川松軒を較頭とし、孟子を講す。営時、袷も、民構自由の請勃典し、肚年の志ある
者、多く按卒を卒ぶ。氏の志、亦、妓にあ b 。即ち、先づ典法卒合に入り、法理語 ...


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どこかの私塾の教頭をしていたようだ。


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このアメリカ婦人宣教師とは、だれなんでしょうか?
まだ、明治15年ですぞ。

といっても、この頃のご婦人で冒険者はなんとたくさんいたんですよ。
イギリスの女性探検家 イサベラ バード なんかは、特に有名。 明治11年 日本探検





明治14年 布施銀行、小諸銀行開業 [明治時代]

あれ! 明治14年の記事も書いたはずだが、消滅しているぞ。
どこへ、消えたんだろう??

小諸銀行開業。

商業の発展だけではなく、柳田茂十郎などの従業員へ貯蓄することなど
推奨していたので、市民による少額貯金のブームも起きていたのでないかと思われる。


明治2年 柳田茂十郎 [明治時代]

小諸藩籍奉還、藩主は藩知事になりました。

ここで、登場ししなければならないのは、柳田茂十郎という人。
この人は、非常に画期的な人で、近代的経営を開始した代表的な小諸商人です。

インターネット上でしらべた限りでは、特に研究されているというわけでもないようです。
しかし、この人は、研究に値するとんでもない人ですね。

なぜ、この人が、すごい人かというと、近代的経営独自に切り開いていくんですね。
詳細は、小諸商人太平記という本に見ていただくのがよいかと思いますが、
概要を拾ってみましょう。

小諸商人太平記 (千曲川文庫 (10))

小諸商人太平記 (千曲川文庫 (10))

  • 作者: 櫟出版部
  • 出版社/メーカー: 櫟
  • 発売日: 1988/01
  • メディア: 単行本



柳田茂十郎は、若い時はすこし、投機的なところがあったようです、横浜で生糸貿易に手を出したようですが、
失敗して小諸に帰ってきます。

そこで、小諸スタイルというべき、地道な商人に生まれ変わります。

そこで、登場するのが、柳田商法というべきものです。

明治3年には、店員にちょんまげを切らせてしまいました。
もちろん、店員全員ですよ。まだ、明治3年ですよ。
作業着も着物というスタイルから柳田式洋服を発案します。
当時のことですから、股引みたいなズボンに法被スタイルという漢字にようですが、
それが、店員の制服みたいな感じだったんですね。
みんな、驚いたことでしょうね。
異次元の文化の登場という感じです。

店は、椅子やテーブルというスタイル
労働時間の制定
休暇の制定
店の経営は合議制 (今のトヨタ的カイゼンの元というべきものかもしれません。)
現金販売(貸し売りはしないんです。ひょっこりしょうたん島のトラヒゲ商法ですね)
店員を非常に大切にし、定休日もあり、娯楽室もあり、貯金制度もありました。

この貯金制度は、もしかしたら、小諸の銀行の発展にかかわってくるかもしれませんね。

暖簾わけをして、独立したお店をもたせるました。
小諸商人太平記によれば、長野から須坂に「柳田」という屋号の店がたくさんあるのは
その影響だと書かれています。(P.24)

柳田は、荒町和合会とい組織も作成し、財産造成や、水路、道路の整備などに力を注いでいきました。

明治3年 鳥居義処 [明治時代]

小諸藩知事の命で鳥居義処 御牧ヶ原の開拓に着手

この鳥居義処氏について、今後調査を行いますが、どうも、
軽井沢の開墾をし、現在の軽井沢の祖というべき存在のようです。

軽井沢という名称も、すこし不思議名称がします。
軽井沢を標高を考えると、長野県の淵にあり、小諸の標高からするとかなり上になり、
碓氷峠を超えて、急なくだり坂になり、地理的には、峠の上にあるような感じです。
長野県の高台の淵にあり、軽井沢を越えると、崖のような急坂が続くという感じです。

この碓氷峠攻略にむけて、明治から格闘もありました。

日本鉄道史のなかでも、非常に急坂で、トンネルも多いので、電気機関車のアブト式が
採用されました。(日本で唯一だったと思います。)
このアプト式は、機関車の下に車輪と別に、歯車がついており、その力で急坂を上りました。

信越本線として、特急アサマなどが通過していたころは、電気機関車を3重連にして、
特急などの機関車に連結して、この急坂を押し上げていました。

新幹線になっても、この急坂対策新幹線が開発され、強力モーターで上ります。

そのような坂の上の位置するのが軽井沢で、名前の沢のイメージがあまりないのが、少し不思議な気がしました。

あまり、資料はないかもしれませんが、鳥居義処を探してみましょう。

Googleで検索できないところは、例によって、Google Book Searchで検索

信州馬の歴史
信州馬事研究会, Shinshū Baji Kenkyūkai 著 - 1988 - 238 ページ
このころ小諸の関五太夫、軽井沢・長野間馬車業 ... 子中牛馬会社創立小諸群出身鳥居
義処は明治八年軽井沢官有原野一 8 町歩の払下げを受げ、この年まで引続ぎ民有地の ...


例によって、ミシガン大学の蔵書のスキャンデータが、軽井沢の官有原野の払い下げをうけて
軽井沢の開墾を行ったようですね。
詳しくは、信州馬の歴史 P238ページを見る必要があるようですが。





明治4年 牧野康哉 小山五左衛門 [明治時代]

藩主 牧野康哉 種痘を実施
明治4年までに 2万4000人の種痘を実施
同年 汎愛社(種痘所)をつくる

非常に現代的な感覚の持ち主だったようですね。
なぜ、牧野氏は、明治の初めに、これほどまでに種痘に熱心であった理由は
もう少し、調べる必要がありそうですね。

明治4年に牧野氏は、藩が廃止に伴い、小諸を離れて東京も向かいます。
7月25日に出発し、みんなで見送りをしています。
9月4日に奥様が小諸を離れて、東京に向かいました。


shuto.jpg

小諸繁昌記 より


牧野氏と種痘に関する記述のある図書 (例によって、Google Book Search より
その多くはアメリカの大学図書館の蔵書をスキャンしたデータの検索)

小諸城
Katsumi Nakamura, 中村勝実 著 - 1983 - 413 ページ
235 ページ
藩主牧野康哉が日からその息女に種痘をさせ、この普及に ... 牛痘伝来
の後、種痘を為さざる医者をはじめとし、巫祝(神に仕えるもの)の徒に至る ...


Shinano - 229 ページ
1990
小諸洋主牧野康哉が其永四年(一八五一)に、桑田立斎門の小諸蕃医林甫三・川口自仙・
推埼静十郎に命じて領内に ... 粂屋重右衛門宅を種痘 ... 種痘は、人口堵加策でも ...


Kyōdo rekishi jinbutsu jiten Nagano - 24 ページ
Sadao Furukawa 著 - 1978 - 242 ページ
明治江戸時代 小諸藩主牧野康哉、領内に種痘を実施 ...

などが検索されました。



小山五左衛門  全国中牛馬会社設立  (民間運送業)
 明治に鉄道が出来るまで、大活躍をした。

 この「全国」の名を課しているところが、なんとも、豪気というか、小諸人の意気込みが感じられますね。



小諸は、碓氷峠を超え、関東、東京への玄関口として、交通の要所であった。
江戸時代の街道としては、北国街道があり、与良、荒町、本町は、北国街道に
沿って繁栄した町である。





明治6年 中牛馬会社の発展 [明治時代]

明治5年については、少し前に書きましたので、そちらを参照してください。少し補足も加えました。
明治5年は、ある面、小諸の大転換点の一つといってもよい年かもしれません。
製糸業の礎が出来た年であること、自由民権運動のための基盤が出来たというべき年です。

さて、明治5年に設立された 全国中牛馬会社の様子を、小諸商人太平記 P36から拾ってみましょう。
どうも、小諸は、政府のやることより、民間でやるというのは、好きなようですが。。。

「明治5年(中略)、この年には、こうした政府の対策に対抗して、、民間の力で運搬事業が始まるのです。
はじめたのは、小山五左衛門で、(中略)
明治6年には、佐久の中馬稼ぎは百十四町村、千二百九十人、馬数は、千三百頭にのぼるのです。
そういう中馬稼ぎ人を社員に組織し、主な街道の要地に分社、支社、荷物取り扱いを置き。。(中略)
 中牛馬会社は、(政府が肩入れして設立した)陸運会社に対抗して、次第にその範囲を広めて、
信越線などが開通する以前の物資の輸送に重要な役割を果たしました。」

などなど、中牛馬会社の活躍の様子が記述されています。
その後、信越線の開通(明治26年)などがあり、また、新たな戦いをしていくことになります。

このような歴史は、小諸馬子唄が、存在していることにも、おおきな意味があるように思います。
のどかな、おおらかな小諸馬子唄からから感じることのできない 小諸商人に運輸にかける情熱が
どこかに隠れているのかもしれません。

小諸商人太平記P18を読みますと、
「「小諸繁昌記」(明治38年刊)という書物を読みますと、草鞋ばきに脚絆をつけ、馬なんかもなかなか
のぼれないような碓氷峠の急坂を超えて関東方面に出向き、実際の産地まで行って、品物を確かめ。。。」
 という記述があります。
碓氷峠が、難所であったことがわかります。そのような難所を越えて、商業を流通させていた小諸商人の
心意気が、伝わってきますが、小諸馬子唄には、ない、隠れた闘志が見え隠れする記述ですね。

そこで、「小諸繁昌記」をいろいろ見たのですが、該当する箇所をみつけることができませんでした。
そのうち、発見したら、掲載しましょう。


明治16年 布施銀行 小諸に本社をおく [明治時代]

布施銀行 小諸に本社を置く

布施銀行の詳細は不明です。(調査中)
明治14年4月1日に 荒町に布施銀行支店を置く
明治16年3月 に、小諸本店とする。
明治18年3月16日閉店 ということで、活動期間は4年程度のようだ。

布施銀行のインターネット情報
寒村における自由民権運動

石塚重平関係文書

布施銀行定款

布施銀行申合規則

Yahoo オークションに、古い株券が出たことがあるらしい


それでは、いつものように Google Book Search でもサーチしてみよう
いくつかの本が検索できたが、OCR文字分析なので、誤字脱字もあるか

小松、石塚 あたりの名前が散見される。


大阪事件関係史料集(全2巻) - 42 ページ
Shōichi Matsuo, 松尾章一, Teiko Matsuo 著 - 1985 - 1160 ページ
忠二郎弁護人の言によれば、小松は私立布施銀行の頭取であった。
大井憲太郎との関係は、布施銀行と小諸銀行との間で訴訟事件が起き、布施銀行が ...

佐久自由民権運動史 Saku jiyū minken undō shi - 176 ページ
Kunikazu Uchara 著 - 1973 - 310 ページ
さらに十四年には、布施銀行を創立し頭取になるなど多面な活動
民権運動との関係は明らかではないが、石塚の手 ...

民権運動の展開 Minken undō no tenkai - 215 ページ
Meiji Shiryō Kenkyū Renrakukai, Meiji Shiryō Kenkyū Renrakukai 著 - 1958 - 240 ページ
十年柱鴻社を設け其社長と為りて青年子弟を集め政治経済の話学を講究す。又懇親会演説
会等を起して以一般人民の政治的思想を喚起せり、布施銀行小諸銀行の ...

Tōsui minkenshi
Kakuzō Sekito 著 - 1903 - 602 ページ
其祉長と舛$て青午子弟を集め。政治怒済の諸卒を講究す。叉怨親含潰詑曾等を起し。
以て一般人艮の政治的思想を喚起せ$。布施銀行小諸銀行の ...

自由党大阪事件 Jiyūtō Ōsaka jiken - 153 ページ
Ryōichi Ishikawa 著 - 1933 - 247 ページ
布施銀行の取締役て・曳訴松卒件を大井に頓んだ腕係から、若千の垂
費金を酸出し ...

小諸城 - 13 ページ
Katsumi Nakamura, 中村勝実 著 - 1983 - 413 ページ
... 遊の所とす(この口はじめて祭典を行ぅ)口明治十四年ロ Ⅴ 四月一日荒町に布施
銀行支店を置き、同十六年三月、小諸本店となせしが同十八年三月十六日閉店したり。 ...

明治の犯科帳 - 113 ページ
Terusaburō Koizumi, 小泉輝三朗 著 - 1967 - 246 ページ
大井の予定では布施銀行の支配人をしていた自由党の石塚重平から大口の借入れをする
つもりでいたのが・セ百円 ...

自由民権年表 Jiyū minken nenpyō: Meiji 17-nen (1884) o chūshin ni
Keiji Masaki 著 - 1984 - 142 ページ
... 大矢正夫・内蕪六四郎、大井・小林・破山らの朝鮮改革計画遂行のために資金造りの
強盗実行に同意する(二回企てて失敗) 7 ・ 1 大井恵太郎、布施銀行支配人石塚重 ...



明治17年 大波乱 [明治時代]

明治17年 3月 石塚重平、小林秀太郎ら、自由党員、小諸文武館で政府に対し武力抗争を図る。

5月 碓氷新道軽井沢坂本間開通 (工費拾弐万)。

11月 秩父暴徒の残党山越えにて、南佐久郡に乱入

なんだか、波乱の年になってきましたね。

明治18年 あれあれ [明治時代]

明治18年 陸軍士官学校生徒 1600名
将校全校長三浦陸軍中将 以下 57名
馬 63頭 来諸

信濃中牛馬会社創立 (長野 本社、小諸 支社)

機器製糸「浅岳」88釜 開業

布施銀行閉店

明治19年 コレラ大流行 [明治時代]

明治19年 コレラ大流行
10月19日 コレラのため行えなかったため、各神社の祭典執行

小学校義務教育4年、高等科4年となる。
北佐久教育会設立

明治20年 警察分署、小学校落成 [明治時代]

明治20年

警察分署 新築落成

小諸小学校校舎 2棟落成
(現在の市立図書館と市民会館のある位置)
soku.jpg

koudou.jpg (小学校講堂 こちらは明治34年新築)

小諸の製糸工業の歴史 [明治時代]

小諸の製糸工業の歴史 (小諸商人太平記を参考に)

明治3年 国は、フランス技師を招き
明治5年 富岡製糸工場を建設、開業
明治6年 小諸から富岡製糸工場へ伝習生 16名が派遣
(この時の伝習生は、フランス人に出会うことになり、多くの刺激を受ける。)
(この状況は、札幌農学校の学生が、クラーク先生に出会うという出来事に似ている。)
(このフランスの影響は、小諸に自由民権の流れを生み出していく。)
明治7年 丸万製糸場を設立 (民間資本 県下初の製糸工場) 創立者 高橋平四郎
繭買取 1280貫(4800キロ)を購入 256貫(960キロ)を生産
明治9年 糸値があがり、経営も安定
明治13年 32人繰りから48人繰りに

高橋平四郎 蚕種の改良
製糸技術の改良

商権回復運動

明治13年 横浜同伸会社 設立 日本から直接生糸の輸出を企画
しかし、外国商人と対立し、輸出がうまくいかず。
明治14年 松方デフレーション
景気も低迷し、生糸の直接輸出計画はうまく、外国商人の手による輸出再開
明治16年 ドル暴落 国内本格的な不景気に
丸万製糸工場 生産停止

明治18年 丸万製糸工場の経営者は変わり、浅岳社になる。

明治22年 高橋平四郎 死去

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明治23年 純水館 を設立 小山久左衛門
明治32年 工場が5つに拡大
明治36年 純水間 第一工場を設立
明治37年、38年 日露戦争 経済の発展
明治41年 養成所をふくめて 工場が11に拡大 (創立当時の30倍に)

小諸が「糸都 」と呼ばれた時代に。

明治40年代 小諸、上田、屋代 に工場を拡大
大正6年 県外で進出(神奈川県茅ヶ崎)
大正7年 小山久左衛門 が死去

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大正9年 小山邦太郎 純水館館長へ
拡大路線から経営引き締め
大正12年 震災恐慌
大正13年 株式会社 純水館
昭和2年 純水館の全盛
昭和2年 霜害に春蚕全滅
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その他の製糸工場
大正11年 神津製糸
大正12年 信陽館
大正13年 大塚製糸場
大正15年 清水製糸場
昭和4年 小諸製糸

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小諸の製糸業の衰退

昭和2年 金融恐慌
昭和5年 世界恐慌 (生糸の価格も10分の1に下落)
昭和6年 満州事変
第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入
昭和16年 蚕糸業統制法 により、完全統制に
昭和18年 県下で工場18に現象
北佐久では、純水館、信陽館、長栄社の3工場に減少
統制経済のため、商業活動が禁止
製糸業が完全に衰退していきます


明治19年 コレラ大流行 そのころの佐賀の話 [明治時代]

明治19年に、小諸にコレラが大流行して、お祭りもできなかったそうだ。

コレラの流行は、全国的規模で発生していたようで、明治18年に
佐賀県でコレラは発生し、コレラ対策に奔走した警察官の話が残っています。
その功績をたたえて神社までできてしまったようです。

佐賀県(肥前町(ひぜんちょう)) コレラに感染しながら防(ぼう)疫(えき)につくした警察官 増田敬太郎(ますだけいたろう)



神社のいわれには、いろいろな縁起があるようですね。
その意味で、布引観音も奇妙な伝説ですね。
あの立地から考えると、布引観音は、浅間山に対峙しているようにも見えます。



小諸から慶応義塾高等科B組 小山完吾 [明治時代]

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によると、小諸から慶応義塾に行った人として、小山完吾が紹介されている。p115

福澤の「散歩党」の一人 新聞人、実業家 小山禎三とは兄弟 (明治8年ー昭和30年)

富岡製糸場を世界遺産にする方法(案) [明治時代]

富岡製糸場を世界遺産にする運動が進んでいるという。

映画の撮影を始まっているという。

フランス人技師によって、フランス様式の建築で、レンガにより建物が」建設された。

すでに、140年を経過していると思われるが、大きなトラブルもなく、建物はりっぱに残っているので、

それを遺産にしたいということらしい。

小諸から、この富岡製糸場をながめると、すこし、ちがった世界が見えてくる。

そこには、北海道の札幌農学校の新渡戸稲造や内村鑑三たちのドラマに匹敵するドラマがあったはずなのである。

日本における、自由民権運動の流れの一つの源流が、富岡製糸場から始まっているのだと思われる。

それは、どうして、そのようなことが言えるかというと

 

小諸商人太平記 (千曲川文庫 (10))

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  • 作者: 櫟出版部
  • 出版社/メーカー: 櫟
  • 発売日: 1988/01
の、p45から46を読むとその様子を伺うことができます。
 
デジタルデータがないので、その本から、すこし引用しましょう。(こりゃたいへんだ。)
 
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伝習生の中には、山本晴明がおります。彼は富岡製糸工場へ行って、初めて西洋文明にふれるのです。
つまり、教師のポール・ブリューナーは、フランス人ですから、西洋の生活様式とか、ヨーロッパ人の
物の考え方とか、そういうものにふれまして、新しい目を開きます。(中略)明治11年には、町の青年士族をあつめて、有為社という結社をつくり、板垣退助の愛国社や、頭山満の玄洋社と連絡をとって国会開設など、新しい政治運動を始めていきます。
また、伝習生に稲垣正直がいます。(中略)師範学校というのは、(中略)いわば、自由民権運動の人材養成機関みたいなものでした。(中略)そこで、勉強して(中略)前山の早川権弥とか、岸野の木内信がいました。
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富岡日記 (《大人の本棚》)

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絹ひとすじの青春―『富岡日記』にみる日本の近代 (1978年) (NHKブックス〈320〉)

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  • 作者: 上条 宏之
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  • 発売日: 1978/07
  • メディア: -
 
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富岡製糸場が、近代技術遺産というだけではなく、政治、思想のひとつの源流であることがわかります。
札幌農学校は、近代基督教のひとつの源流になったように、富岡製糸場は、近代政治、思想の大きな流れを
生み出すひとつの流れであったことは確かだろう。
 
もしかしたら、富岡製糸場の一つのエピソードとして、映画が一つできるかもしれない。
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 


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